midorigasoyoguブログ

毎日を自分らしく生きるために、綴ります。

しぶたね・しぶこと とか。

先日の新聞に、障がいのある子どものきょうだい支援「しぶたね」の取り組みの記事が載っていて、目に留まった。
  しぶたね:きょうだい支援の種を蒔いているNPO法人
  シブコト:sibukoto 障がい者のきょうだいのためのサイト 


私も、いわゆる障がいを持つ子の「きょうだい」として育った。
3歳上の姉は、軽度知的障害とてんかんがあった。中学も半分ほどしか行かなかったと思う。家に居た。知的障がいと言っても、会話も普通に出来るし、簡単な足し算や引き算程度は出来る。悪口を言ったり嘘をつく事が出来る。自分の思いに合わせて都合よく嘘をついて、周囲の人間関係を混乱させて困らせた。障がいが軽い分、稚拙な嘘がつけたり、借金も出来たりして、周囲を振り回した。


姉が色々と周囲の人に有る事無い事を言い、私は周囲の人から心無い言葉を受け傷つき、腹を立てていた。私は、言葉にして、うまく自分を守る術を持たなかった。つたない言葉で姉への不満を周囲の人たちに訴えても分かってもらえず、反対になぜ優しくしてあげられないのかと批判を受け、優しくない自分を責め自己嫌悪になっていたと思う。(後になって自分の思いを想像する。)自分の思いを、認識して、伝え、分かってもらう事は難しかった。私は、自分の事は自分で出来るから大丈夫、自分は手がかからない子だと思って育った。


姉の理屈の通らない言動に振り回される事だけが原因ではなかったが、家族や家庭環境が嫌いだった。私の家庭環境が特別だったということでもなく、色々な家庭があるとは思うが、自分が育った環境が嫌いだった。
母親はさして悩みを抱えるという様子ではなかったと思う。悩みすぎない人だった。姉は、かかりっきりにならなければならない様な障がいではなかったが、生活においての管理や指示が必要だった。父親は、姉のどんな事にも関わることなく、自分の時間を生きていた。姉の度重なる借金は、母親と私とで処理をした。

カラタネオガタマは、丈夫で育てやすく、手間のからない招霊の木


両親への不満や怒りや反発は、成長してから気が付いた。我慢をしていたという事ではなく認識していなかったと思う。学校を出てからは、家に帰らず、就職をして寮に入った。
母親が、高齢になり、歩行困難で手を支えてくれるようにと、手を差し出してきた時、私は手を支える事が出来なかった。手を取ることが嫌だった。


親が亡くなった後、姉をどうするかについての考えは両親には全くなかった。父親は高齢になってからは、姉を小間使いのように用事をさせたり、一緒に遊ぶ相手にしていた。両親がそれぞれに入院して、その後亡くなり、姉は生活が出来なくなった。近所から、姉の部屋の匂いが臭いと市役所に苦情が上がり、私に連絡が来た。私は、施設を捜して、姉を入所させてもらい、姉が住んでいた家の後始末をした。姉の色々な事は、私が対応すると両親は思っていたのだろうか。私に迷惑が掛からない様に何とかしておこうという気持ちはなかったのだろうか。
今でも、姉の入所している施設から、必要時には電話かかかってくる。常時世話をするというのではなく、施設で対応してもらえる事は有難いと思っている。